ルシアンの瞳はルビーのように煌めいて、いつも優しくエマを見つめるのに。
(あっ。今日はルシアン様もいらっしゃるかな?) エマは懐に手を当て、忍ばせた小さな袋を確かめた。 ルシアンへのお礼にと、朝のうちに急いで用意したお守りの袋だ。 今日は王太子もレオナールもいないので、隙を見て渡せるかもしれない。 (ルシアン様っ) 昨夜の、甘い眼差しと、体に触れた手を思い出すと、奥がきゅんと疼く。 中に入った静香石が、クルンと動いて、思わず震えた。 「ッ……ダメ」 思い出すと躰が熱くなってしまう。 せっかく熱が下がったのだから、仕事に集中しなくては。 エマは気を引き締めると、皇太子が滞在する天耀宮(てんようきゅう)へ向かった。+++
エマは『聖樹』専用の法衣のうち、準礼装の法衣を選んで身に纏った。
正礼装と同じく、くるぶしまでの長さがあり、袖口や襟元に金の縁取りがされ、銀糸でさりげなく刺繍が施されている。昨日のパーティで着たのと同じ格式の法衣だ。 そして、他の『聖樹』の準礼装に比べたら、まったく飾り気のない法衣である。 (恐れ多くも、皇太子殿下をご案内する役目を仰せつかったのに……僕だけ見劣りするんだろうな) 控えの間で待ちながら、エマは暗い顔でため息をついた。 エマのすぐ後ろには、先ほど王太子からの文を届けてくれた筆頭秘書官と、身なりの整った若い書記官、それに騎士団長の姿が控えていた。 みな、家格や役職に相応しい身なりをしているのに、エマだけがあまりに質素だ。 (……しっかりしなくちゃ) 『聖樹』であること以外に何の価値もない自分は、こういうときこそ『聖樹』の役目を立派に務めなければ。 「エマヌエーレ様」 筆頭秘書官に呼びかけられ、顔を上げる。 彼は中年の男性で厳めしい顔をしているが、思いがけず優しい声で話しかけてきた。 「私は、王太子殿下よりエそれ以外の男性からの贈り物は、丁重に辞退するのがむしろ礼儀だと教えられたはずだった。 「でも、ナタリナ。それは……」 エマが口を開きかけたその時、ナタリナがやんわりと遮った。 「本日、エマ様はデイモンド伯爵の恋人として同行されるのでしょう? でしたら、何も問題はありませんわ」 そう言って、にこりと笑う。 言葉はやさしいが、否を許さぬ強さが滲んでいた。 「え? 恋人っ?」 突拍子もない言葉に、エマは目をぱちぱちさせる。 すると、ルシアンがすかさず口を挟んだ。 「エマ。今日の視察は、帝国からやってきた恋人と共に王都を見て回るという筋書きにしてあります」 落ち着いた声で、まるで当たり前のことのように告げられる。 「レディーを同伴するには、恋人の立場がいちばん自然です」 「そう、ですね……」 「ええ。レディーは、必ず宝石を身につけるものです。お芝居とはいえ、貴方は私の恋人になるのですから、贈り物をするのは当然のことです」 ルシアンに、恋人と呼ばれて、エマはドキドキしてきた。 (恋人だから……断ったらダメってことだよね?) ナタリナの言葉を思い出し、エマの鼓動が早くなる。 例えお芝居でも、ルシアンの恋人役だから、贈り物を受け取らなくてはいけない。 そう諭されて、エマの心が揺れた。 「エマ。貴方を想いながら、いちばん似合うものを、私なりに選びました」 ルシアンの甘い言葉に、ドクン、と鼓動が跳ねた。 (ルシアン様が、選んでくださったなんて) お世辞かと思ったが、ルシアンの優しい笑顔はきっと本心だろう。 エマは不相応だと知りながらも、とうとう頷いた。 「わ、分かりましたっ……」 その言葉に、ルシアンはほっと息をつき、ナタリナは嬉しそうに頷いた。 クロエも温かな眼差しでエマを見つめている。 (……本当に、いいのかな) 胸の奥でまだ少し迷いはあった。けど、宝石箱の中で輝くピンクサファイアを見ると、胸が高鳴る。 エマが前を向くと、ルシアンがネックレスを手に取り、そっと首にかける。 ひやりとした鎖が、うなじに落ちた瞬間、思わず息を止めてしまった。 「動かないで下さい。すぐに済みますから」 落ち着いた手つきで留め具を留めると、ルシアンは髪を整えてくれた。 「さあ、エマ。鏡を見てごらん
「ぇっ?」 「エマ」 あっけにとられているうちに、ルシアンはそっとエマの左手を取り、甲に柔らかく唇を落とした。 「っ……ル、ルシアン様……!?」 息を呑んだエマに、ルシアンは真剣な眼差しを向ける。 「春の女神も、きっと嫉妬するでしょう。あなたの美しさを表す言葉が、見つからないのです」 そう賛美するルシアンの赤い瞳には、真摯な光が宿っている。冗談や戯れではないようだ。 「えっ……あ、あの……?」 うまく返せず、エマは戸惑った。 ルシアンはひとつ息をつき、声を落として囁いた。 「春の薔薇よりも可憐な貴方を、エスコートする栄誉を、どうか私にお与えください」 「……は、はいっ」 エマはコクリと頷く。 まさか、ナタリナやクロエが見ている前で、ルシアンがこんなふうに言ってくれるなんて。 胸の奥で、何かがふわりと弾けるような感覚がした。 (今までのも……全部が戯れの言葉じゃなかったのかな?) ルシアンは色事に慣れているから、甘い言葉を本気にしないようにと、自分を戒めてきた。 でも、ルシアンは甘い眼差しで、エマを見つめている。 「ありがとうございます。エマ」 「ぁ……っ」 嬉しそうに笑う顔に、鼓動が跳ねる。 心臓がドキドキと早鐘を打って、体が熱くなってきた。 (そんな目で見つめられたら……また好きになっちゃう) 今朝は抑制剤を飲んできたのに、腰の辺りがズクンと疼き出す。蕾に入れた静香石も、クルンと回った。 「んッ……」 ビク、と震えると、ルシアンがそっと手を離した。 ゆっくりと立ち上がり、エマを見つめる。 「エマ、こちらを」 ルシアンはクロエから小さな箱を受け取り、それをエマに差し出した。 淡い桜色のリボンがかけられたジュエリーボックスは、それだけでひとつの宝飾品のようだった。艶やかな漆黒の木肌には繊細な彫刻が施され、蓋には小粒のダイヤモンドが星の
腰のあたりまで一気に伸びた薄紅色の髪に、唖然として目を見張る。 「す、すごい……」 「まあっ、なんとよくお似合いでしょう!」 ナタリナの感嘆する声に、目を瞬かせた。 鏡には、ふわりと柔らかく波打つ、薄紅色の長い髪が映っている。髪の色と長さが変わっただけで、まるで別人のようだ。 「髪の色、キレイ……」 ぽつりと呟くと、鏡の中の少女も、同じように口を動かす。 瞬きすれば、同様に真似をする。 (……これが、僕?) 驚きのまま鏡を凝視していると、クロエがにこやかに笑いかけた。 「エマヌエーレ様。お化粧を致します」 「あ、はいっ」 令嬢は化粧もするのだと思いだし、鏡の前で身を正した。 化粧も初めてで、クロエに化粧水や乳液を塗りこまれたり、筆でくすぐられたりして、慣れない感触に逃げ出したくなる。目を閉じておくように言われたので、エマは目をつむったまま、化粧が終わるのをひたすら待った。 ようやく化粧が終わると、最後に薄い絹のリボンが喉元に結ばれる。 「終わりました。エマヌエーレ様、どうぞご覧下さい」 クロエの声に、やっと目を開ける。 鏡を見て、また驚いた。 「えっ?」 エマの頬はうっすらと紅潮し、唇は薄く艶を帯びている。 薄桃色の髪は、耳の上から取った髪束を左右で編み込み、後ろでひとつに結い上げられていた。結び目には、ドレスと同じ蜂蜜色のリボンが結ばれ、小さな白い花の飾りが添えられている。 残る髪は肩から背にかけて流れ落ち、光を受けてやさしく輝く。 妖精のように可憐な少女が、鏡の奥から驚いた顔で見つめていた。 「なんとお美しいっ!!」 ナタリナの感激した声が聞こえる。 クロエも満足そうな顔で頷いた。 「ええ。春の女神のようです。このように素晴らしい機会を与えて頂けて、誠に光栄ですわ」 二人からの賞賛も、エマの耳を通り抜ける。 (この少女が、僕?)
「このドレスにしましょう!」 二人の意見が一致して選ばれたのは、陽だまりのような、やわらかな色合いのドレスだった。光を受けてきらめく絹の生地は、蜂蜜色から淡い金へと色を変えながら、胸元から裾へと流れるように繊細なレースをまとっている。 胸のあたりまで隠れるデザインで、鎖骨が見える程度だろう。カミラ嬢が着ていたような、艶やかで官能的なデザインではない。露出が少ないことに安心した。 「エマヌエーレ様。コルセットが少しきついかもしれませんが、体型を保つためですので」 「う、うん……」 クロエの言うとおり、コルセットを締めると苦しかった。 女装をすると聞いて心配していた胸の部分は、コルセット自体に胸のふくらみが象られていて、そこに特殊な詰め物をすると、体型に違和感がなくなる。 布製のパニエをつけてドレスを着ると、一気に女性らしくなった。 「可愛らしいですわ、エマ様!」 「ありがとう、ナタリナ」 「次はこちらへ。エマヌエーレ様」 クロエに促されて鏡台の前に座る。台の上には、小瓶に詰められた香油や、粉白粉(こなおしろい)、薄紅、筆道具などが整然と並べられていた。 エマは初めて見るものばかりで、興味深く眺める。 「あぁ、惜しいですわ」 エマの後ろに立ったナタリナが、残念そうに呟く。 「どうしたの、ナタリナ」 「いえ。せっかくエマ様が可愛らしくなりましたのに、御髪(おぐし)の長さが残念で」 「それは仕方ないよ」 男のエマが、髪を伸ばしている方が不自然だ。 それに女性騎士は髪の短い人が多いから、ドレスを着る場面では髪飾り等で工夫していると聞く。 今回の女装も、そうすれば問題ないと思っていたが。 「あら! わたくしったら、うっかりしてましたわ」 クロエが、ポンと手を打った。 そして、エマとナタリナに向かって、ニッコリと微笑む。 「エマヌエーレ様の御髪についても、きちんと用意してありますのよ」 クロ
ルシアンが軽く頭を下げて詫びる。 ナタリナは驚いたように瞬きした。伯爵であるルシアンが侍女に頭を下げるなど、普通はありえないからだ。 「いえ……デイモンド伯爵に頭をお下げいただくようなことではございません。私こそ、出過ぎた真似を致しました」 ナタリナは頭を下げて、エマの後ろに控える。 クロエはエマを見つめて、嬉しそうに微笑んだ。 「ルシアン殿の仰ったとおり、素晴らしい素材ですわ」 「クロエ。言葉を選んで下さい」 「ま、わたくしったら、つい」 クロエはクスクスと笑って、控えていたメイドに合図を送る。 そして、エマの前で深く膝を折った。 「エマヌエーレ様。本日はわたくし、クロエが、着替えをお手伝いさせて頂きます」 「あ、ルシアン様が仰っていた、変装のことですか?」 「さようでございます。エマヌエーレ様には、こちらをご用意いたしました」 そう言ってクロエが指し示した先には、可愛らしいドレスが数着ある。黄色に薄桃色、水色と黄緑と、春らしい色合いのものばかりだ。 「あのっ、これは、女性のドレスでは……?」 エマが戸惑っていると、クロエはにこやかに頷く。 「ええ。このお姿でしたら、外出されてもエマヌエーレ様だとは気付かれませんわ」 「え、でも……!」 (僕がドレスなんて、似合うはずないよね?) 女装をするのだと言われて、エマは及び腰になった。 とっさにナタリナを振り返ると、なぜか感心したような顔をしている。 「たしかに、エマ様によくお似合いかと思いますが」 「ナタリナ!?」 「エマ様は、とてもお美しい方ですから」 ナタリナのうっとりした声を聞いて、エマは援護を諦めた。 (もうっ、ナタリナは僕のこと美化しすぎだよ!) 「あの、僕が女装なんて、おかしいですからっ」 エマは精いっぱいの反論をするが、そこへルシアンが口を挟んだ。 「おかしくありませんよ、エマ」
ルシアンの言葉に、エマはワクワクしてきた。 皇太子も王太子もいないので、失敗を恐れて緊張する必要もない。 (ルシアン様をご案内できるなんて……しかも、二人きりって!) 憧れのルシアンと、一緒にいられるのだ。 エマは浮かれそうになったが、脳裏にレオナールの姿がよぎる。 「ぁっ……でも……」 「どうしました?」 「その……先日、ルシアン様をご案内させて頂いた件で、王子に酷く叱られてしまいまして……」 もし、ルシアンと一緒にいると知られたら、レオナールは激しく怒るだろう。 いくら王命だと言っても、レオナールは自分勝手な理屈でエマを責める。このことが知られたら、どんな仕打ちを受けるか分からない。 エマは俯いて、両手をぎゅっと握りしめた。 (また、折檻を受けるかもしれない……っ) 思い出すだけで、身が竦む。 尊厳を踏みにじられ、苦痛に泣き叫んでも、許してもらえない。 あの時の恐怖に怯えるエマは、気付かぬうちに体を震わせて黙り込んだ。 (やっぱり、体調が悪いって言って、断った方がいいのかな……) ルシアンなら、エマが断っても許してくれるだろう。 せっかく、好きな人と一緒にいられる機会だったのに、それを手放さないといけないなんて。 「……も、申し訳ないのですが、」 「エマ」 そっと頭を撫でられる。 優しく呼ぶ声に、おずおずと顔を上げた。 「エマ、大丈夫ですよ」 ルシアンが優しい顔で微笑んでいた。 見惚れるほど端麗な顔に、輝く赤い瞳。間近で見つめられ、エマの胸が高鳴った。 (ルシアン様っ) ドキドキしていると、ルシアンがまたエマの頭を撫でる。 「心配することはありません。第二王子が狭量な人間なのは承知してます。エマは今日、王太子殿下の補佐として、馬がけに行っていることになっていますから」 「えっ?」 「王太子殿下にも、了承を得ています」